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グループ1からです。

  • 2008/08/29(金) 15:00:00

タイの学生が尊敬している人はどんな人でしょう。

まずはマムさんからです。


子どもの頃から今まで、私にとって偉い人がたくさんいる。
先生とか先輩とか、ある大人である。
しかし、私の心の中にずっといる人は父だ。
 
 父は私の生きがいのいい見本になる。
彼はいい家の頭領だ。
家では牛の農場があるので、父は毎日牛に草をあげながら飼っている。
その農場では牛を65頭飼っている。
とても大変だと思う。
でも父は面白いので毎日すると、幸せだと言った。
私は父に
「仕事大変?」
「暑いのに、大丈夫?」
という質問を聞いたことがある。
いつも答えは
「あなたの子供じゃないんだから、心配しなくてもいいよ。」
と言っていた。
毎回、私は涙を流していた。
そのことを言っても、父は働き続けた。
畜産


 父は面白いし、陽気だし、だから友人も多い。
それだけでなく、父は私に我慢を教えてくれた。
実は高校の時からずっと寮に泊まっていた。
時々は寂しい感じがするが、両親に電話をかけない。
どうしてだと思う。
父は
「大切なことがなかったら、電話をかけてはいけない。」
と言ったことがある。
寂しくても、我慢しなければならない。
今はもう慣れた。
一人で泊まるのは大丈夫。
だから、私の性格は父に似ていると考える。
父はまじめな人なので、休日があない。
彼はお年寄りになったら、私は心配すると思う。
だから、卒業した後、家へ帰りたいけど、帰ってはいけないと命令された。
仕事をしなさいと言われた。

 父はいい見本なので、ずっと私の尊敬する人だと言える。
それぞれの人の尊敬する人は違うが、皆さんが尊敬する人のとおりにしたらいいだろうと思う。

とても我慢強い(がまんづよい)お父さんなんですね。
マムさんはお父さんの子どもで幸せですよね。
同時に、自分の身近にいる人を尊敬できることもとても幸せだと思います。

次はクックさんからです。


 私の尊敬する人はレーナ・マリア・クリングヴァルだ。
彼女は体に障害がある歌手だ。
彼女はスウェーデンの中南部の村に生まれた。
誕生日は1968年9月28日だ。
家族は両親と弟がいる。
父親は警官だ。
母親は看護婦だ。

 彼女は出生時から両腕がなく、右脚が半分の長さしかない。
両親は自分たちの手で普通の子と同じように育てた。
3歳の時から水泳教室に通い始めた。
水泳歴のハイライトは1988年にソウルオリンピックへの出場であった。
彼女は、泳ぐことばかりか歌うことも上手だ。
1987年に名門ストックホルム音楽大学に入学した。
彼女の声はとても美しいから、大学を卒業後、ゴスペル・シンガーとして本格的に活動を始め、様々な国でコンサートを行った。
1997年3月には、長野冬季パラリンピック開会式で歌った。
彼女は多くのアルバムができた。
例えば、「イン・ユア・ディライト」や「アメージング・グレイス」などだ。
その他に、彼女も自分の生活について本を作った。
この本の名前は「Foot・Notes」だ。
rena.jpg


 彼女は体に障害があるのに、普通の人と同じ生活ができ、成功したのだから、大したものだと思う。
私たちは、生まれる所を選べないが、何をするのか選べる。
できるだけしたいことをするように努力するべきだ。
したがって、私はレーナ・マリアの伝記を読み、すごく尊敬している。

自分に負けずに頑張り続けることができるのは、とてもすばらしいですね。
尊敬する人に習って、努力していきたいですね。



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グループ2からです。

  • 2008/08/29(金) 14:53:42

ずっとアップしてきた作文のブログですが、
提出作文も残り少なくなってきました。
今回はみなさんの尊敬する人についてです。

それでは、ポム(36番)さんからの作文を紹介します。


現在、タイでは食べ物についてのビジネスが急速に進歩しているので、私はこのビジネスに興味がある。
この作文は私の尊敬するビジネスマンを紹介したい。
OISHIグループの会長のタン・パートゴーンナティーである。

 タンさんは1959年4月4日に生まれた。
今49歳である。
彼のお父さんは会計士をしていたが、お母さんは学歴がないのでお菓子を売っていた。
彼はチョンブリー県で公立小学校を卒業した後、パジョンという寄宿舎付きの中学校に進学した。
家が貧乏だったので、卒業した後、お父さんと一緒にバンコクへ移ったから進学できなかった。
お父さんの手伝いで、彼はラシラシャターニー・メートーの社員になった。
この会社は様々な国からの輸入品を売る会社である。
給料は700バーツだけだった。
彼が一生懸命働くことによって、4年後、1万8000バーツの給料で部長になった。
しかし、自分のビジネスをしたかったので、本屋を造るために仕事を辞めることを決めた。
それから、ハンバーガー屋やパン屋、美容院などという様々なビジネスに投資した。
OISHI.jpg


 1999年、タイでは強い経済の問題が起こったから、借金が多かった。
しかし、彼はその問題が解決できた。
それだけでなく、食べ物と飲み物についてのOISHIグループ会社をつくり、様々な店をつくっている。
OISHIレストランやOISHIお茶、In&Outパン屋という有名なものである。
さらに、彼はビジネスを持つばかりか、財団にお金を提供している。
れす

 
 彼は中学しか卒業しなかったが、一生懸命働いたので、企業家として成功した。
彼の真面目さには、本当に尊敬するものがあると思う。
私もタンさんのようになりたいので、頑張っている。

あのOISHIグループ会社の成功の裏(うら)には、
そんな苦労(くろう)話があったんですね。
ひたむきに(一生懸命)頑張ることってできそうで、できないんですよね。
みんなは大学まで進学できて、とても恵(めぐ)まれていますよ。
その分(ぶん)頑張りましょう。

次はナムワンさんからです。

 私の尊敬する人、コーフィー・アナンは7番目の国連事務総長である。
彼は、1938年4月8日に生まれた。
ガーナ人である。
ニンシィーと結婚した。ニンシィーはスウェーデン人である。
子どもが4人いる。


 彼は、技術と科学を勉強した後、アメリカのマーカーレスター大学に進学した。
その後、スイスのシェーニワー大学の経済学とアメリカのマサチューセッチュ大学の経営学部を卒業した。
また彼は様々な言語が話すことができる。
例えば、英語やフランス語、アメリカの方言などである。
そして、彼は1962年初めて国連で働いた。世界保健機関の予算を立てた人である。
それから、様々な義務を果たした。
例えば1990年イラクの軍隊はクウェートを侵入した後、彼をイラクの政府と交渉する大使として任命した。

彼は1993年に平和活動をした。
それから1997年1月1日に国連事務総長に任命された。
国連事務総長になった後も、様々な国の人を助けた。
例えば、貧しい人々に対する寛容の心を持つように、人々の心を動かした。
特に不平や醜さ、苦しみなどである。
彼は2001年ノーベル賞を受賞した。
6番目のノーベル平和賞を受賞した黒人である。
阿南


 彼は、世界中で平和活動をしている素晴らしい人である。
彼が世界中のみんなのために献身するのは、実に尊敬するものがある。
世界中の人が、彼のように世界の人のために、献身すれば、もっと世界は平和な生活になると思う。

ビウさんの考えの通りですね。
アナン事務総長までいかなくとも、一人一人が平和な社会を築くためにできることは
きっとみんなの側(そば)にあります。
彼は世界の人々に勇気(ゆうき)と希望を与えてくれていますね。


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